不格好なまま、世界と出会い直す。
永井さんにとって、自分の世界を広げてくれた「言葉」との出会いはありますか。
高校生の頃、寺山修司の『血は立ったまま眠っている』という言葉に出会いました。意味はよく分からなかったけれど、なぜか心に深く響いて、それまで見ていた景色が一変したんです。
言葉を通して、もう一度世界を見直したくなるような気持ちになりました。
服にも世界の見え方を変える力はあるのでしょうか。
風通しのいい服を着たときに風を感じたり、いつもは見過ごしていた景色に目が向いたりする。服を着ることで、自分が変わるというより、自分と世界との関係が少し変わることがあります。
自分をどう見せるかではなく、服を通して世界との関係を結び直すこと。そういう経験がもっとあってもいいし、もっと語られてもいいなと思っています。

「纏う」という言葉を聞いて、何を思いますか。
「纏う」という言葉には、自分一人で完結しない、他者への広がりが自然に含まれているように感じます。言葉は自分の所有物のように語られることが多いけれど、本当はもっと他者とのあいだにあるものではないかと思っています。
服もそうですよね。私が着ている服は、私以外の誰かが作ったものです。その誰かの手を通ったものが、一番近い場所で私の身体に触れている。
他者との関係のなかで育まれている。「纏う」という言葉は、そのことを思い出させてくれる気がします。
言葉を纏うことにも、似合う・似合わないはあるのでしょうか。
ゴーゴリの『外套』という小説があるんです。主人公は身の丈を少し超えた立派なコートを買う。でも、すぐに奪われてしまう。
私はこの話を、言葉の話として読み解いています。自分の言葉に自信が持てないとき、人は少し強そうな言葉を纏いたくなることがあります。それを身につけると安心するし、強くなった気もする。でも、それがまだ自分のものになっていなければ、毛皮のコートみたいなものかもしれないのです。
だから私は、不格好な言葉をもっと大切にしてもいいと思っています。


最後に。
今日話していたら、急に服を纏うこと全部が不思議に思えてきました。私自身、「この服でいいんだっけ」と思うことばかりで、「この言葉なら大丈夫」ということもありません。みんな、まだ途上のまま、考え中のまま、自分を世界に差し出している。
ファッションも言葉も、完成された自分を見せるためのものではなくて、もっと探求的なものなのかもしれません。
そうやって私たちは少しずつ変わりながら、まだ見ぬ自分や世界に出会えるのだと思います。


永井玲衣(ながい・れい)
哲学者。人びとと考えあい、ききあう、哲学対話の場を各地でひらいている。著書に『水中の哲学者たち』『世界の適切な保存』『さみしくてごめん』など。詩と植物園と念入りな散歩が好き。